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俺は高校卒業後すぐに輸入雑貨を扱う会社に就職した。
今年でもう入社5年になるが、今だに微妙な関係を保っている女性がいる。
それは、俺の直属の上司である、課長だ。
課長は初めて会った時から、『すごい綺麗な人』という印象だった。
しかし、いざ一緒に仕事をしていくと、そんな外見を打ち砕くような気性の激しい人だという事がわかってしまった。
仕事に関しては完璧主義で妥協を許さず、部下がミスなどしようものなら、男女構わず恐ろしい程の怒声を吐く…。
そんな性格が災いしてか、俺の同期連中は課長を毛嫌いし、課長の同期である先輩達も、とてもやりづらいといった雰囲気だった。




結果、仕事以外での仲間達の話題は課長の悪口ばかり。
俺も正直、「あそこまでボロクソに言わなくてもいいのに…」などと、少なからず不満を抱いていた。
そんな状況の為、課長が職場で孤立していくのは時間の問題だった。
部のみんなでの食事を企画しても、幹事をしていた同期は部長は呼んでも、課長にだけ声を掛けなかったり…
最初俺も少し賛同している部分はあった。


しかし、よく見つめ直すと、そんな自分の気持ちがとても稚拙に思えるようになった。
嫌な先輩を仲間外れにするなど、まるで中学生の部活動だ…。
だから俺は妙な個人的感情は捨て、課長の事も『仕事』として割り切る事にした。
そんなある日、俺はとある内部資料を作成した時に、派手な数値の打ち込みミスをしてしまい、全てを作り直す事になってしまった。
俺は徹夜を覚悟し、職場仲間の帰りを一人、また一人と見送りつつ、定時を過ぎてもひたすらパソコンの画面と原本資料の二つと睨めっこをしていた…。
しかし…悪い事というのは続くもので…その日は課長も、別件の作業で残業をしていた。
つまり、職場のオフィスの中で課長と二人きりで仕事…。


いくら割り切るようにしたとはいえ…かなりツラいものがあった。
ただでさえ山積みの仕事に追い詰められているのに、課長の見えない圧力まで感じてしまう気がして空気が重く感じた。
しかし、逃げる事は許されない…。俺はただ必死で仕事を淡々と続けた。
そんな感じで刻々と時間が過ぎていったが、ある時、課長が珍しく仕事の手を休め、給湯室の方に行った。
俺は別に気にも止めなかった。


しばらくすると、課長は戻ってきた。
しかし、その足取りは自分のデスクではなく、俺の方へと向けられていた。
俺は何か言われるのかとビクビクしながら、身体を硬直させて気付かないふりをしていた。
ついに課長は俺の所へ…!


その時…俺の手元にマグカップが置かれた…。
中には煎れたての湯気がたつコーヒーが…。
俺は思わず課長の方を振り向いてしまった。まるで珍品を見るような目で…。
「一息いれたら?集中するのもいいけど、ずっとやってたら目がもたないわよ?」
課長が今まで見た事もないような穏やかな表情で俺に声をかけてきた。
「えっ…あ、はい!そうします」
俺はなにやら訳がわからないような気持ちになり、しどろもどろに答えていた。
俺は課長が入れてくれたコーヒーを持ち、自販機などが置いてある喫煙ブースがある廊下に出た。
課長はタバコを吸わないはずだが、なぜか一緒に俺とそこにやってきた。
なんだか落ち着かない感じで、俺はタバコに火をつけた。
「順調に進んでる?」課長がまた話しかけてきた。


「はい。一応…大まかな修正は終わりました。」
「そう。頑張ったね。あと少しだから、しっかりね」
俺は信じられなかった…。あの課長が…俺に労いの言葉をかけてくれている…。
大袈裟だが、何かすごい事が起こっているような気がした。
そして俺はなぜか…もっと課長の声が聞きたくなってしまった。
「あの…コーヒーありがとうございます。おいしいです」
「ほんとに?ならよかった。普段あんまり入れないからね」
…とてつもなく普通の会話をしてしまっていた。


俺はその時、ある事に気がついてしまった。『課長って…実は仕事を離れたらいつもはこんな感じなのでは…?』と…。
「よし…そろそろ戻ろうか。早く終わらせて帰りたいしね」
いつもはキツい、眼鏡の奥の課長の目が優しく笑ったのを俺は見逃さなかった。
つかの間の休息後、俺と課長は再びお互いのデスクに戻って仕事を再会した。
俺は淡々と作業をしつつも、先程の課長の表情が頭の片隅でチラついていた。
そんなこんなでなんとか仕事を終わらせた。
時計を見ると、すでに午前3時を過ぎていた。課長もちょうど作業を終え、大きく溜息をついていた。


「終わったのね。こっちもちょうど片付いたわ。」
課長が俺のデスクの横にやってきた。
課長はなんだかすごく疲れた顔をしていた。それを見た俺は、『課長もこんなスキだらけな顔することもあるんだな…』などと思ってしまった。
俺はデスクを片付け、帰る準備をした。その時、自分がかなり空腹な事に気がついた。
そして、『帰りに飯食って帰るか…。課長…誘ってみようかな…』
そんな考えが浮かんだ。とにかくその日は、課長と何か話がしたくてたまらなかった。
きっとコーヒーを入れてくれた時にした、課長との取り留めのない会話のせいだった。
俺の中で課長を見る目が確実に変わってしまっていた。
俺は帰る支度をしている課長の所に歩いていった。


「課長、お腹空いてませんか?自分、帰りになんか食べて帰ろうと思ってるんですけど…よかったら一緒にどうですか?」
今考えても、よくこんなすんなり誘えたもんだと思う。
それなりに緊張はしたけど…
俺の誘いに課長はきょとんとしていた。「なんで?」と言わんばかりの表情だった。
しかし…
「いいね。どこ行こうか?」
意外な返答が返ってきた。


「えっと…とりあえず…帰り道で決めましょうか」
俺は少し焦りながら課長に言った。
「そうね。じゃあ、早く出ましょうか」
俺は課長と足早に会社を出た。
駅へ向かう道中、いろいろ探したが、時間が時間だったので、結局会社の近くのファミレスに行くことになった。
「ファミレスなんて久しぶりだわ。大学の時以来かも」
ファミレスの席にお互い座り、課長が周りをキョロキョロしながら言った。
そんな課長と反対に、俺は緊張しっぱなしだった。


目の前にいる女性は当然のごとく、毎日顔を合わしている職場の上司である課長。しかし、今までの課長とはまるで別人だった。
中身だけが誰か別の人間に入れ代わってるような錯覚すら覚えた。
しかし…せっかく誘ったのだ。だんまりでは意味がない…。
「課長は…和食派ですか?それとも洋食派ですか?」
俺はメニューを見ながらそんな事を口走った。
『ファミレスに来といてなんて事を聞いてんだ、俺は!?』と、後で思った。
確かに少し和食っぽいのもあるが、ファミレスは基本洋食だ…。
なんとも答えにくい事を聞いてしまったと思った。


「うーん。どうなんだろ。どちらかと言うと洋食好きになるのかな。今日なんかこれにするし」
課長が笑顔でメニューのピザを指差した。よくわからないが、その仕草がとても普通で、とても可愛く見えてしまった。
心のどこかで…スイッチが入った瞬間だった…。
「○○君は?」
そんな俺に気付く事もなく、課長は問い掛けてきた。
「えっ…?あっ、ああ!俺も洋食が好きですね。今日はカレーにします」
思わずしどろもどろになった。それからすぐに注文をし、再び料理を待つ間時間ができた。


「ありがとう…」
課長がいきなり言ってきた。
「え?何がです?」
俺は突然お礼を言われ、訳がわからなかった。
「食事、誘ってくれてって事…。仕事仲間と一緒に食事なんて、入社した頃以来なかったから…」
課長は少し寂しそうな顔をした。
たしかに…普段の仕事をしている課長を見ている限り、仕事が終わって食事に誘うような者はいないかもしれない。
しかし、課長の本当の姿を俺はその日知った。仕事での課長…あれは多分使い分けているのだと思う。
自分にも、他人にも厳しい課長なら、当然のような気がした。


「私ね…ずっと前に…。うん…、入社して3年目ぐらいの頃かな。ちょっといろいろあってね。その時から絶対仕事に個人的な気持ちとか、感情を持ち込まないようにするって決めてるのよ。」
課長は水の入ったグラスを見つめながら、静かに語り始めた。
「だって…自分個人の気分とかやる気とか、そんな事で仕事がおざなりになったりする事って、あってはならない事だと思うの。」
いつもの口調に近い、少し強い調子で課長は言った。
「仕事に感情はいらないの…。会社ってのはね、私たちに余計なものは求めてないのよ。ただちゃんと働いてくれればそれでいい。その代わり給料をキチンと払う。それが雇い主と雇われる側の一番理想的な形だと思うの。」
俺は何も返答できなかった…。


「だからこそ、ミスは絶対に許されないの…。ウチにもいるわよね。まるで仕事に、趣味を楽しむみたいな姿勢で取り掛かる人達…。私はあんなのは許せないの。お気楽気分でお金が稼げる程、世の中甘くないわよ。」
課長は最後のその言葉を吐き捨て、口をつぐんだ。
二人の間に、鉛の塊のように重い沈黙が流れた…。
課長に以前何があったかは知らないが、何か異常なものを感じた。


「…ごめんなさい…せっかくご飯食べにきたのに、こんな話するなんて…。なんだかんだ言って、私も公私混同しちゃってるわね…」
課長は突然ハッと気付いたように、俺に謝った。
「いやいや、いいんですよ!課長の言う事はごもっともですから。俺も立派な考えだと思います」
確かにその通りだ。会社は学校などとは違う。
なんと言っても、働いてお給料を貰っているのだ。安易な気持ちや心持ちで仕事に臨むのは間違っている。
ただ…課長の意見はほんの少しいきすぎかなとは思ったが…。


「でも…君は頑張ってるなって私思ってるわ。そりゃ確かにミスも多いけど、同じ事は繰り返さないし、何よりいつも一生懸命にやってくれてるしね」
課長は再び笑顔で俺に言った。
しかし…意外だった。いつも課長には怒られてばかりだったが…実はそんな風に思ってくれいていたとは…。
正直、すごく嬉しかった。
そんなやりとりをしているうちに注文したものが運ばれてきて、課長と俺は食事をとる事に専念した。
その日まで、課長と一緒に食事をする事など夢にも思わなかった。なぜなら課長が大の苦手だったのだから。


しかし今は食後のコーヒーを飲みながら、楽しく談笑している…。
なんだかとても不思議な感じがした。そして、課長のしぐさの一つ一つを…だんだん意識するようになってしまった。
その日は課長と駅で別れ、俺は少し幸せな気分で帰路に着いた。
次に課長と会ったのは、土日の休みを挟んだ月曜日だった。
いつもは気が重い月曜だが、その日からはどこか違っていた。
「会社に行けば、課長に会える…」そればかりが頭に浮かんでいた。
俺は足早に階段を上がり、自分の部署があるオフィスのドアを勢いよく開けた。
そして自分のデスクに向かうのにワザと遠回りして課長のデスクの横を通った。
「おはようごさいます!」
俺はバッグから荷物を出している課長に元気よく挨拶をした。


「おはようございます」
返ってきたのはいつもの事務的な挨拶だった…。
そこには、ファミレスで見せてくれた笑顔は一欠けらも含まれていなかった。
少し寂しい気持ちになったが、「まぁ…あの日は特別だったんだな…」と自分に言い聞かせ、席に着いた。
朝礼が終わり、それぞれみんな各自の仕事に取り掛かり始め、オフィスは慌ただしくなってきた。


俺はなんだか仕事に集中できなかった…。取引先に電話をし、それが済んだら一息ついて課長の方をぼんやり見る…。
たまに課長と目が合って俺はドキッっとするが、課長は無表情で何事もなかったようにパソコンに目線を戻す。
そんな状態が続いていた…。


その時、同期の夏美ちゃんがいつものように俺にコーヒーを入れて持って来てくれた。
「○○君…今日はどうしたの?」
いきなり内緒話をするような感じで彼女は言ってきた。
「え?何が?」
「なんか課長の事…すっごい気にしてるっぽい…。昨日なんか嫌な事言われちゃったの?」
夏美ちゃんは俺の後ろ隣の席のせいか、どうやら課長を見ているのを気付かれていたようだった。
「いや、別に…。あぁ、昨日飲み過ぎたから頭ぼぉーっとしてんの。�5��になんでもないよ」
俺はただ笑ってはぐらかした。
「そうなの…?あんまり飲み過ぎはよくないよ」
夏美ちゃんは少し訝しげな顔をしていたが、特に追求もせず、他のデスクにもコーヒーを運びにいった。
「気をつけなくては…」
心の中でそう思った…


もうすぐお昼になろうという時、なんと課長が俺のデスクにやってきた。
相変わらず無表情で、手には書類の束が…。
「後で手が空いたらでいいから、この統計、まとめといてもらえる?」
「あ、はい!わかりました」
「よろしくね」
会話はそれで終了し、課長は自分のデスクに戻っていった。
俺は渡された書類をペラペラとめくり、軽く目を通した。その中に、何か書かれた黄緑色のメモ用紙が挟まっていた。
『金曜日はありがとうね。なんだか久しぶりで楽しかったよ。それと、今日は全然集中してないわよ!ちゃんと仕事しなさい!ちゃんと頑張ったらお昼ご馳走してあげるから(にっこりマーク)』
俺はそれを読んだ瞬間、思わず雄叫びを上げてガッツポーズを決めそうになった。
しかしそれを我慢し、何も見ていないフリをしてそのメモをひっそりスーツのポケットにしまい込み、再び仕事に戻った。


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